星の見晴らし

 

マンスリーゾディアック星の見晴らしエンジェルメッセージ

 

連載コラム

星の見晴らしほしはな ちびぐるみ〜12星座の旅〜ハーバルアストロロジーお問い合わせ

エンジェルウィスパーネットショップASTERIDEA BLOG

星の見晴らし

こちらのコーナーでは 毎月の星の動き・星座のコラム、エンジェルメッセージをUPしてまいります。

星の動き・星座のコラムは 男性占い師ユニットNOT FOR SALEメンバーのSugarさんに、エンジェルメッセージはドリーン・バーチュー博士公認エンジェルセラピー・プラクティショナーⓇのMomokoさんに毎月更新していただく予定です。 お楽しみに!

 

占星術上で特筆すべきこととしては、まず木星が星座を変えて双子座に入ること。6/12に双子座入りし、来年の6月25日までの約1年間、同星座に在泊します。占星術では木星は社会的ムーブメントを司る星であり、在泊する星座がその1年間のムードを左右すると考えます。つまり、個人と社会との接点としての仕事や経済活動、政治や流行などを通し、今後の動きを読み解くキーとして「双子座」がとても重要になってくるという訳。そのあたりについて、木星の本質について言及しつつ読み解くというのが1つ目のポイント。


また、今月はさらに、24日に天王星と冥王星が初めて正確に90度の角度をとり、この組み合わせは2015年までに計7度繰り返されます。動きの遅い天体同士の組み合わせで、影響も非常に強力かつめったに起きない現象ですから、自分たちの「今後」を考えていく上では木星以上に意識を向けておく必要のある動きと言えますね。こちらについては、主に似た星の配置をとっていた60年代と重ねあわせていくことで掘り下げてみたいと思います。

【星の見晴らし 賭けごとと木星と平清盛】〔その1〕

NOT FOR SALE Sugar

「自己責任」をめぐる倒錯

木星は伝統的に「大吉星(グレート・ベネフィック)」とされてきました。よく星占いの記事で「12年に一度の幸運期」などと書かれているのは、木星の入っている星座がいわゆる太陽星座と重なっている約1年間の期間を指します。それにしても、幸運、保護、成功、豊かさと繫栄、これらのものを木星がもたらすとされるのはなぜなんでしょうか?この点については現代の状況を考えると、少し込み入った文脈があるんですが、今回はあえてそれについても触れておこうと思います。というのも、結局そこを理解しておかないと、双子座に木星がうつったということの真の意味はつかめませんし、幸運期という言葉もただ空しく響くだけですから。

まずそもそも、幸運というものはその根本において、「世界の偶然性(私というのものが本質的に偶然性の中にいかんともし難く取り込まれていること)」を前提としています。例えば、生のはじめにどのように名前が与えられるかは意図的に選べませんよね。遺伝的要因、取り巻く生育環境、属すことになる国家や共同体、いずれも同様です。そこではラッキーはアンラッキーと表裏一体であり、どちらの面が表にあらわれるかは偶然性に任されていることになっている。かつての社会ではそれを「運命」という一言で片付けていた訳です。

しかし一方で、現代の私たちの日常というのは大方のところ予測可能な仕方で成立しています。言い方を変えれば、生活はある程度決まったパターンへと落ち着きやすく、逆に予測不能な例外はリスクであると見做されるようになり、避けられ減らされるべき対象となりました。ある意味で、人生はすべり台式に固定化ないし硬直化しがちなものになってきたとも言えるでしょう。それは近代以降の社会において、「今はかつてとは異なってリベラル(自由主義的)な社会であり個人には自由と権利が保証される」と信じられる度合が増すにつれ優勢になってきた傾向で、社会制度の整備やテクノロジーの進歩とともに強まってきたところがあります。

そうやって社会が徐々にリスク管理社会へ移行し、個人におけるリスク計算に基づいた人生選択こそが社会生活における焦点になってくると、今度は、近年日本でも各所で槍玉にあがっている「自己責任」といった概念が持ち上がってきます。つまり、「人生とは確固とした存在としての個人が社会に働きかけた結果に他ならず、私たちはその有限的な連関に対するコントロールをたえず心がけ、リスク管理を熟練させる必要があり、もし不測の事態が発生した場合、その責任はすべてとは言わないまでもあくまで個人にある」という考え方です。ニートや引きこもり、ホームレスなど、こうした自己責任論は、よく批判のための口実として使われていますね。

ただそこには、明らかにパラドックス性を帯びた倒錯が生じてしまっているんです。というのも、よくよく考えてみると、私たちは例えば自分の感情でさえロジカルに中立的に扱うことはできませんし、ましてや制御コントロールすることなどとてもできません。体調、思考、感覚そして他者、自然なども同様です。天災や事故などを持ち出すまでもなく、私たちは「不意に訪れてしまうもの」を避ける術というのを、実際にはほとんど持ち合わせていないんです。あるいは、こうとも言える。私たちは自分がなした行為が、他者にどう受け止められ、どんな影響を与えるのか、結局のところよく分からないと。

つまり、リベラルで、ある程度ではあれ公正性が確保された(個人に一定の権利や機会が約束された)がゆえにリスク管理こそが問題であるはずの社会にありながら、根本的には重大だと思われるすべてのリスクの回避や低減なんて不可能であることにうすうず気付いている、という奇妙な立場に私たちは置かれていることになります。率直に言えば、自己責任論において個人に問われている「責任」なんてものは、本当はほとんど「賭けごと」みたいなものなんです(責任の所在の最終的な不明さ)。そこではラッキーとアンラッキー、丁と半のはざまで、たえず揺れ動いているものとしての自己というのが前提になっている(どこか首相がコロコロかわる日本の政治を連想させます)。

これは土星的な自己責任論の立場からすれば、凄くおっかない話です。外なる自然や他者、ないし感情や体調などに振り回されつつ、ひたすら脆弱な存在として置かれてしまう。それがゆえに、私たちは社会という心もとない箱の中にいる不安を少しでもぬぐい、リスクそのものである自身の在り様を隠蔽せんがために、「自己責任」を語りたくなるよう仕向けられている(本人としては自発的に語っているつもりであれ)という矛盾を多かれ少なかれ抱えてしまうんですね。