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マンスリーゾディアックとは 日本語で言えば「毎月の12星座」です。

太陽の通り道「黄道」 そこには12個の星座が配置させていおり、毎月30度ずつ進んでおります。それを「黄道12宮」と言います。

そこの場所を太陽が通過するとき、「○○座」という表現になります。 (私の誕生日は○○座) マンスリーゾディアックでは毎月の太陽星座を見つつ、その星座に隠れている「教科書には書かれていない星座の事」をピックアップしてまいります。 どうぞお楽しみに☆

 

第3回【双子座について】

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■”交易”する双子座は頭の中に都市をつくる

双子座は一般的に、好奇心旺盛で頭の回転もはやい一方で、腰が軽く落ち着きがない星座と言われています。そういう意味では、ときに牡羊座と似ていると思われることもあるかも知れませんが、実際には全く違います。

牡羊座というのは、たとえれば新生児のように「自分とセカイ」ないし「自分と宇宙」といった、間にある社会が抜けた壮大な世界に生きているのが特徴で、牡羊座に特有の無謀さやパワーというのも、そういう大袈裟でぼやけたものと向き合う意識構図の元から生まれてくるものです。

それに対して、双子座というのは、あくまで兄弟姉妹や親戚、あるいは近所の遊び友達などと向き合いつつ、彼らと遊びまわることのできる、ある意味で身近な「外界」に生きているんですね。そのため、同じ無茶をするでも、牡羊座ほど意味不明な感じになる訳でもなく、必ず何らかの意味があったり、周囲へ発しているサインがあったりします。

またそこでは、当然いじめが起きてきたり、それを仲裁するリーダーとかガキ大将みたいな存在も現れたりして、個人の集まりとしての複数性とか、力関係にもとづく個々の差異への意識が必ず強調されてくるのも特徴です。天上天下唯我独尊状態で周りが視界に入らないままでいられる牡羊座との違いが顕著になってくるのは、このあたりですね。

ただし、複数の子供がいる世界といっても、小学校のクラスのように、集団生活における協調や帰属意識が求められるハコを連想し始めてしまうと、もうそれは次の蟹座の領域です。双子座の世界の登場人物というのは、みなそれぞれ個性があって、それぞれ異なるつながり方によって結ばれています。個が集団の中でかき消されるという経験をする前の、ドラえもんに出てくる近所の空き地のメンバー(のび太、ジャイアン、スネ夫、しずかちゃん)と+アルファとしての出来杉くんくらいのイメージです。

出来れば、ここで一度立ち止まって、そうした在りし日の記憶を思い出してほしい。
まだ蟹座的なハコにも回収されず、かといって、牡牛座的に、大人しく置かれた環境に専心している赤ん坊な訳でもない。母の膝元から這いだし、自分の身一つで動き回る自由が与えられた「個」としての自覚が芽生えた頃、自分はどんなふうに世界の広がりを感じ、何を一番に思っていたのか?家のそばの空き地や公園、原っぱで、だれと何をして遊び、日が暮れて家に帰るまでどんな時間を過ごしていたのか。

そこでは、自分の知らないもの珍しいものや、新しい物事との出会いがあり、あるいは逆に、日頃自分にとって慣れ親しんだものの価値を改めて思い知ることもあるでしょう。あちらからこちらへ、こちらからあちらへ。そこで行われているのは単純な物質の”交換ではなく、交易です。遣唐使や、ドラクエのルイーダの酒場なんかのイメージ。そうした交易には、つねに変化する動きと動きの交差のなかで生まれる文化があり、驚きや発見にもとづく視点の変化があります。そんな香辛料があったとは!でもね、こーんな手触りの織物、知らなかったでしょ?と。双子座というのは、そうやって交易の結び目をつないでいって、自分の頭の中にやわらかな脳内都市をつくっていくんです。

双子座の支配星は水星ですが、水星というのは錬金術の神であり、シンボルでもあります。異質なものを組み合わせ一段高いものを作り出す術としての錬金術は、発明と置き換えてもいいでしょう。そうした発明が可能なのも、どんな情報やアイテム、相手を見ても、脳内都市のここにもっていけば、価値が生まれそう!とか面白い出会いになりそう!という発想の仕方ができる双子座の脳内都市、思考都市があったればこそ。言い換えれば、そういう都市をいかに面白く、快適に、発展させているかどうかが、双子座の成熟度合いをはかる目安とも言える訳です。

■「コウモリ」としての双子座

たえず異なる要素との出会いと発明を求めて、都市をふらふらしている。そんな、双子座的な「行ったり来たり」の物語を先程の視点とは少し違った角度から描いたものとして、イソップ寓話の「卑怯なコウモリ」が挙げられます。

むかし鳥族と獣族の間で大戦争が起きていたとき、鳥族には「自分には翼があるよ」と言って取り入り、獣族には「ねずみのような毛と牙があるよ」といって取り入り、両陣営をいったりきたりすることで、まんまとひとり争いから逃れたコウモリというあの話。しかしやがて争いが終わり、鳥も獣も和解し話し合う段になったとき、幾度も寝返りをしたコウモリは、「どちらの種族からも嫌われ、仲間はずれにされた」「卑怯な奴だったので悲惨な末路を迎えた」といったような、オチを迎えることになります。

教訓話として読ませたい人は、この物語を、口先だけでころころ意見を変えるご都合主義や、人との付き合いを損得勘定でしか捉えそのためには何でもする利己主義を批判するために利用するでしょうし、それは例えば、生活保護の不正受給のような”甘い汁をすする”=”血(税)をむさぼるコウモリ”=吸血鬼のようなネガティブな連想にもつながるかも知れません。確かに、極端な描写とはいえ、双子座にはそういう暗黒面もあるのかも知れません。

ただ、実際には血を吸うコウモリというのは全体のごく一部で、中国や沖縄など、東洋にはコウモリを忌み嫌う伝統というのはありません。なにより、そもそもイソップ寓話のディティールも上記の普及されたイメージとは違って、「取り入って甘い汁を吸いにいった」のではなく、「対抗する種族と間違って捉えられた時に、機転をきかせて危機を脱した」というニュアンスだったり、最後の教訓も「状況に合わせて豹変する人は、しばしば絶体絶命の危機をも逃げおおすということを弁えて、いつまでも同じところに留まっていてはならない」というものだったりするんですね。そういう意味では「”卑怯な”コウモリ」という題も、あまりに誤解を招く表現だと言うことができます。

むしろ、コウモリは2つの世界のどちらにも入っていけるという自分の特性をうまく活かし、状況に応じて機転を利かせ、危機を切り抜ける術に長けたデキる奴という見方もできますし、ある意味でこれも自分の持ち物(牡牛座)をいかしてコミュニケーションを試みる交易なんですね。また、そもそもみだりに片方だけを担いで戦争に参加したりせず、どちらの陣営にも身を置いた上で、中立を保とうとする態度は、非常に「理性的」であるとも言えるでしょう。

逆に、そうした理性を押しつぶそうとするのが、鳥であることや獣であることといったカテゴリーにこだわる集団的で感情的な圧力であり、それは集団を維持するための掟に従わないものを村八分にするムラ的な論理でもある以上、「卑怯な奴でした」でコウモリが片付けられる結末というのは、ある意味、社会における「理性の死」を意味するバッドエンドに他ならない訳です。

個人原理より集団原理の方が優勢な日本のような社会だと、どうしてもコウモリに象徴されるような理性は、不敬罪よろしく非難されがちですし、双子座の苦しみというのはこういうところに起因しているのかも知れません。が、歴史を振り返ってみれば、重い信仰こそがしばしば「思い込み」となって重大な誤りを伴ってきた諸悪の根源でしたし、コウモリ=双子座的な「軽み」があって初めて、対立する二つの要素は、ひとつ上のレイヤーにある第三の立脚点で結びつけられるんですね。これは錬金術のプロセスのひとつではありますが、ただそうやって浮かび上げることのできる対立構図というのは、世にまだまだたくさんあるのではないかと思います。

とは言え、ときに卑怯者と言われて、誤解に苦しみ、その苦しみに耐え切れなくなって、吸血鬼になりかけてしまうこともあるでしょう。それでも、コウモリが”理性的なコウモリ”であるためには、「行ったり来たり」の領域横断的な交易活動を途中でやめることなく、「軽み」を保ち続けることが肝要でした。感情的にはどちらかに振り切れたほうが楽だし、中立を保つのは難しいことだけど、だからこそそれは意味のある挑戦でありえます。

どこか孤独で、誤解も受けやすい一方、異なる要素が結びつくポイントを探し、たえず橋渡しを模索する双子座。彼らがどこか「都会的」な印象を放ち続けるのは、そうしてたえず「ムラ」や「家」といった閉鎖的な領域を乗り越えようと開かれ続けているからかも知れませんね。

 

■双子座は遊体としての”蝶”に導かれる

先程、双子座をよき性質に導くものとして「軽み」という言葉を使いましたが、むろんその背景には「」のイメージがあります。あの世とこの世を「行ったり来たり」するのは人間においては魂ですが、ギリシャ語において霊魂(プシュケー)という言葉はそのままずばり蝶をあらわす言葉なんです。

こうした、人間の魂が蝶に象徴されるという考え方は、ギリシャだけでなく琉球やインドネシアなどのアジア圏も含めて、それこそ世界中の言い伝えや信仰の中で見つけることができます。あるいは日本の本州でも、戦国時代の合戦場跡には無数の蝶が群れ飛んだという話が残っていて、これなんかは古代ギリシャ人が「人間の魂は1つの生命からほかの生命に移るとき、飛ぶ虫の体を借りる」と信じていた感覚と近いものを感じますね。

また、地上を這うようにしてその生を送る毛虫が、さなぎとなることで変容を遂げ、やがて天上的な翼をもった姿へと生まれ変わることから、蝶は”再生”や”復活”を象徴としても考えられてきました。例えば、キリスト教では蝶はずばり<復活>を指しますし、その成長段階が、イエス・キリストにおける生→死→復活になぞらえられ、しばしば幼子イエスは蝶を手にしている姿で描かれてきました。

こうして考えてみると、領域横断的な「行ったり来たり」は、芋虫がさなぎをへて蝶へと姿を変えるような劇的な「変身劇」を伴う、という風にも考えられます。それは文字通り、言葉では語りようのない「身(ミ)=個体」の深部で起こる根本変化であり、会心の交易は都市構造を劇的に作り変えてしまうほどのインパクトを脳内都市にもたらすものなのだとも言えます。錬金術が「密議」とされてきたのも、そうした理由からなのかも知れません。

ともあれ、領域横断的な身の特徴は有翼ゆえの「軽み」ですが、そうした身体性というのは、一般的な社会生活の基準からすれば、遊んでいる子供と同じで、「おぼつかない(非効率)」「あやうい(不安定)」「むだ(非生産)」といった忌避or矯正すべき対象として一見うけとめられがちです。したがって、家の側としてはそれを親が直接目を光らせて「監視」しますし、村の側としては、冒頭の「卑怯なコウモリ」のような道徳や、慣習、法律などで、間接的に沈静化し、固定化することで、自らの秩序を保とうとします。

けれど、双子座にとっては、世界というのはすでにある自明のもの=1つではなく、いつだってまだ見ぬ外がある=2つなんだということを思い出す必要があるでしょう。それはちょうど荘子が「胡蝶の夢」において、ある日旅先で自分が蝶となって野原を自由に飛び回っている夢を見た男に問わせたように、自分が蝶となる夢を見ていたのか、それとも蝶が自分となる夢を見ているのかという2つは、どちらかが虚偽として斥けられるべきところのものではないのだ、という「理性的」な態度に通じるところがあります。

そうした、社会的な秩序を保とうとする組織的な防衛反応に負荷を与え、蝶を追っているうちにスルリとそれを乗り越えてしまうような、幼児の自由奔放な身体性こそが遊びの原点であり、双子座の真骨頂。そういう意味では、双子座にとって生きやすさとは遊びやすさであり、生が豊かであるということは、身が硬直しないこととイコールなのかも知れません。

2012年6月12日に木星が双子座入りし、約1年間、私たちが生きる社会の動きやそこで感じられる潮流において、双子座的な性質がおおいにフィーチャーされることになります。願わくば、「遊びをせんとや生まれけむ遊びをせんとや生まれけん遊ぶ子供の声聞かばわが身さへこそ揺るがるれ(『梁塵秘抄』)」という歌のように、遊びだけが人生だった頃のことを思い出して、これからの1年を過ごしてみていただければと思います。

 

双子座のKeyword:
外界・複数性・錬金術・発明
交換ではなく交易・領域横断・脳内都市
行ったり来たり・伝える・コミュニケーションする
「個としての自覚」・軽み・蝶・プシュケー(霊魂)・胡蝶の夢
生きやすさは遊びやすさ、豊かであるとは硬直しないこと

 

 

sugerSugar(シュガー)
1983年7月31日生。慶應義塾大学哲学科卒業後、ベンチャー企業の営業職を経て、より多くの人に占星術の面白さを伝えるべく、占い師の道へ。現在、対面鑑定・講座・執筆などを中心に活動中。男性占い師ユニットNOT FOR SALEメンバー。

 

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